【鎌倉七口】鎌倉へと続く七つの古道

史跡

鎌倉七口って知ってる?

鎌倉の山の中には、切通しと呼ばれる鎌倉時代の古道が残されています。

昔の面影を残す道もありますが、整備されて車道になった道や私有地となり今は通行できない道など、現在の姿は様々です。

鎌倉の古道、切通しを訪ねてみました。

鎌倉七口とは

鎌倉の地形は三方を山に囲まれており、その山々が天然の要塞として外敵の侵入を防ぐ役割を果たしています。

しかし、人の往来や物資の調達には不便だったために山を切り開いて道を作りました。これが切通しと呼ばれる道です。

鎌倉にはそのような切通しが七か所あり、鎌倉七口といわれています。

鎌倉七口

◎ 朝夷奈切通(あさいなきりどおし)
◎ 名越切通(なごえきりどおし)
◎ 亀ヶ谷坂(かめがやつざか)
◎ 巨福呂坂(こぶくろざか)
◎ 化粧坂(けわいざか)
◎ 大仏切通(だいぶつきりどおし)
◎ 極楽寺切通(ごくらくじきりどおし)

朝夷奈切

鎌倉幕府が仁治2年(1241)に鎌倉と六浦現・横浜市金沢区を結ぶ重要交通路として、山稜部を開削して建設した道路です。

「吾妻鏡」には執権・北条泰時が自ら現場に出向き工事を指揮したとあります。

当時の六浦は天然の良港でした。朝夷奈切通しの開通によって幕府はこれを外港として東国(安房・上総・下総など)や中国大陸との物流の拠点にし、都市鎌倉を政治的・経済的に支える重要な役割を果たしました。

名越切通

名越切通は鎌倉と三浦一族の居城・衣笠城(三浦半島)を結ぶ要路でした。

切り開かれた時期は不明ですが、「吾妻鏡」の天福元年1233八月の条に「名越坂」の記述があることからそれ以前に開通していたものと考えられています。

また、付近には「まんだらやぐら群」などの墓所や多数の火葬跡なども発見されています。

亀ヶ谷坂

山ノ内から扇が矢を結ぶ坂道。

現在は整備されて緩やかな坂道となっていますが、昔は急坂だったために「亀も引き返した、または亀がひっくり返った」との逸話から亀返坂という別名もあるそうです。

巨福呂坂

建長寺から鶴岡八幡宮の裏手に続く道で、仁治年間に鎌倉幕府執権・北条泰時が命じて作らせた切通と考えられています。

現在は私有地のため通行はできませんが、江戸時代の庚申塔や道祖神が残っています。

化粧坂

化粧坂は鎌倉の北西から武蔵方面に抜ける道です。

鎌倉の交通の要衝であり、「吾妻鏡」には小町屋および売買所を構えてよい場所の一つとして「気和飛坂(化粧坂)山上」と書かれています。

また、周辺の発掘調査では多数の火葬跡が発見されており、葬送の地であったことも明らかになっています。

大仏切通

梶原・山崎を経て武蔵・京都へ通じる道。

記録がないため、正確な開削時期は不明ですが、北側にある北条常盤亭の存在や、朝夷奈切通、巨福呂坂の整備時期との関係から仁治2年(1241)から建長2年(1450)ごろ整備されたと考えられています。

極楽寺切通

極楽寺切通は鎌倉と京都の往還の重要な出入り口でした。

極楽寺から由比ガ浜方面に抜ける道で、極楽寺の寺伝によると開祖である忍性が最初に切り開いたとされています。

現在は車道として深く掘削され、道幅も広く整備されていますが、当時の切通しは成就院境内の高さを通る傾斜のきつい崖路でした。

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