満福寺は源義経が兄の頼朝に送った腰越状の下書きがあることで有名なお寺!
江ノ電腰越駅から徒歩3分ほど、踏切を渡ったすぐ先に満福寺の石段があります。
なりたち
山号:龍護山
宗派:真言宗大覚寺派
本尊:薬師如来
開山:行基
天平十六年(774)に行基が開山したとされる歴史あるお寺です。
みどころ
義経・弁慶ゆかりの品
境内には弁慶が腰かけたといわれる腰掛石や手玉石、義経が手を洗った井戸などを見ることができます。
腰越状
本殿展示室では、弁慶によって下書きされた「腰越状」が展示されています。保存状態がよく、弁慶の筆跡をはっきりと見ることができます。
わたくしは鎌倉殿(頼朝)の代官のひとりに選ばれ、天皇の使いとなって戦い、平家に倒された父(義朝)の恥をそそぎました。鎌倉殿からは、褒美がいただけるに違いないと思っておりましたのに、逆にあらぬ告げ口によってお叱りをうけ、血がにじむほどの、悔し涙をこの腰越の地で流しています。朝廷から武将としては最も高い位の五位ノ尉に任命されたのは、源氏の名誉でもあります。なのに、こんなにお怒りになるとは。
(かまくら春秋社「寺ものがたり満福寺」より抜粋)
頼朝と義経(腰越状の背景)
源義経は源頼朝の異母弟にあたり、治承四年(1180)に頼朝が伊豆国で挙兵すると 兄のもとに馳せ参じました。
義経は元暦元年(1184)に源義仲を討ち入京し、次いで一ノ谷で平家を追討します。その後 京に戻り、後白河法皇の信任を得て検非違使・左衛門少尉となりますが、頼朝の許可を得ていなかったことで怒りを買い平家追討の任を解かれます。しかし、文治元年(1185)再び平家追討に起用され、壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡に追い込みます。
頼朝は義経に京での勤使を命じますが、義経はこれに背き捕虜の平宗盛父子を伴って鎌倉に入ろうとしました。しかし、義経に不信を持つ頼朝が鎌倉入りを許さず、腰越の満福寺に逗留することとなりました。
頼朝に対し叛意のないことを示すために、頼朝の側近・大江広元に託した書状が腰越状です。
義経のその後
鎌倉入りを許されなかった義経は頼朝の追及をの逃れるため各所を転々としますが、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼り奥州平泉に向かいます。しかし、秀衡が亡くなると子の藤原泰衡(やすひら)の襲撃に合い、文治5年(1189)に妻子とともに自害し31歳でこの世を去ります。
再び義経が鎌倉に戻った時には首桶に入れられた姿となっていたました。
悲劇的な最期を迎えた義経ですが、だからこそ人々の心に残り、多くの伝説が生まれたのではないでしょうか。
本堂
展示室と本堂がつながっており、法事などがなければ本堂内も見学することができます。
弁慶や義経の姿が描かれたふすまは絵巻物のようです。
色とりどりの鎌倉彫が施された天井。
満福寺Data
※拝観時間、拝観料などは変更されることがありますので、お寺のHPなどをご確認ください。万が一間違っていても責任は負いかねます。
住所 | 鎌倉市腰越2-4-8 |
行き方 | 江ノ電腰越駅から徒歩4分 |
拝観時間 | 9:00~17:00 |
拝観料 | 本堂展示室 大人(高校生以上) 200円 中学生 100円 |
公式サイト | http://www.manpuku-ji.net/ |